登場キャラクター
成瀬:ライゼン
Я 朝霧来夢さん:翠さん・舞佳さん・リリィさん
楽しい、ということを知るのは必要だと言われた。いまは顔もおぼろな、女性から。
同時に「楽しいことを知る必要はない」とも断ぜられた。いまも面影が焼き付いている、男性から。
ライゼンは冷たい水槽――”プール”というらしいモノに頭まで沈みながら考える。目を開くことは止められた。だから視界は真っ暗闇だ。黒色の静寂に浸った後、呼吸が苦しくなると顔を水槽の上に突き出した。
肺に取り込まれる酸素は普段よりも甘く感じる。だけれど、全身に行き渡る酸素の甘さは今回だけが特別なものではない気もした。シャングリラに来てから随分と呼吸がしやすくなった。かつていた場所と空気そのものが違う。酸素に気を楽にする成分でも含まれているのかな、とライゼンはぼんやり考えた。
「ずいぶん、長く潜れますね」
声が降ってきた。顔を上げると少年がプールの縁からライゼンのことを見下ろしている。おずおずといった様子で、少し距離を置かれていた。
だが、ライゼンは相手との距離の間隔を気にする繊細さも経験もなかった。
ライゼンはにかりと笑う。相手、舞佳は驚いた顔になる。表情の変化も気にせずにライゼンは空に向かって手を伸ばした。
「プールっていいな。冷たくて、気持ちいい。ずっとここにいたくなるよ」
「初めてなのに、潜ることも泳ぐこともできて……すごいです」
控えめな微笑みと賛辞の言葉にライゼンはまた、言葉にしがたい感覚を抱いた。シャングリラの人たちは優しい。異邦人であるライゼンに向かって排斥する言葉を投げてくる相手はいない。「故郷に帰れ」とも「お前はいない方がいい」などと言われたことは一度もない。
ただ、痛ましそうに見つめてくる。舞佳も同様だった。笑っているが同時に、哀しそうでもある。
恵まれているという、他人の痛みに心を寄せられる環境にいる人も苦しいのだと、ライゼンは直感した。ただ、いま自分が感じたことを上手く言葉にはできず、また伝えてはならないことだというのも、理解していた。
だから笑う。
「マイカ……舞佳の髪ってさ、あれに似てないかな」
「あれって?」
不思議そうな舞佳にライゼンは春に見た、とある菓子を思い出す。
名前は確か。
「さくらもち!」
「え?」
「さくらみたいなところと、葉っぱみたいなところ。両方あって、さくらもちそっくりだよ」
「……そうなんですか」
いささか微妙な表情をされて、ライゼンは言葉の選び方を間違えたかと考える。
だけれど似てるし。さくらもちはおいしかったし。決して、傷つけたかったわけじゃない。
その想いを伝えたくて、とりあえず謝る。
「んん、ごめん。おれ、変なこと言った?」
「ううん。そんなことはないです。でも、そうか、さくらもちか」
悪意の否定はされた。だが、舞佳の寂しそうな表情は消えない。ただ「さくら」とだけ繰り返している。
居心地の悪い沈黙が落ちたところで、背後から派手に水を被せられた。ライゼンは慌てて後ろを振り向く。背後には、腰に手を当てて怒りの雰囲気を漂わせているリリィがいた。
「ラーイーゼーン」
「はい」
素直に返事をすると、またリリィから水を浴びせられる。多少目の中に入って、痛い。
「なんでも知りたいのはいいけど、なんでも知ろうとするのはいけないよ」
「どういうこと?」
「いまはわからなくてもいいよ。でも、世界を救う勇者になるのなら、もう少し繊細にね」
リリィの口にした内容のほとんどを理解することはライゼンにはできなかった。だけれど、大事なことを教えられた。
人に触れる時は繊細でなくてはならないんだ。だから、皆、こんなにもおれに優しかったんだ。
ライゼンは舞佳に向き直る。
「舞佳。もし、あるのなら教えて? 舞佳のすきなもの」
「え」
「今度は、そのすきなものを一緒に食べよう」
そうしてライゼンが伸ばした手を、舞佳は拒むことをしなかった。
